『青八木が存在しなかった話』ちょいファンタジー

 


 ある日突然、俺は“居た”気がする。
 誰にも言えない。
 もちろん家に帰れば父さんも母さんもいる。
 だが、今は部屋すら思い出せない。学校にいると家がなくなっている。それぐらい希薄だ。
 いつか訊かれた時、中学の思い出一つぐらいはあった。それは自転車を買ったこと。とにかく嬉しかったことは覚えていたから、そう伝えた。
 
 でも、
 何というか、
 俺は自転車と携帯ゲーム機と音楽プレーヤーを持って生まれてきたような。
 
 変だとは思っている。
 はっきりと記憶に色がつき始めたのは高校に入学してからだ。
 校門までの坂を必死で登っていると景色が鮮やかになっていった。
 不思議な事もあると思いながら、輝かしい高校生活を期待して自転車置き場に向かった。
 そこで手嶋に会った。
 誰よりも色が濃く見えた。日焼けというわけじゃなく、光と影のコントラストがくっきりとしていた。
 光量が多かったのか。よく見えないぐらいだったので、少し視線を外したことを覚えている。
 とにかく色が氾濫していて、直視が難しかった。
 高校生活はそんな風に、鮮やかなところから始まった。
 
 自転車に乗っていることで手嶋の興味を惹いたのだと分かった。
 会ってすぐやたらと構われて、部活の話をする。もちろん入るつもりだと言った。俺はその時は、そのつもりだったのか自分では分からなかった。ただ、ああして坂を登ってきて、自転車の部活動がある学校に入ってきたのだから、当然入るだろうと思った。
 
 
 
 部に入ってしばらく経ち、強烈なダウンヒルの一年レースに参加。それで部内の立ち位置が振られた。通常練習をメインに、先輩の田所さんの指導の元よく鍛えられた。田所さんは尊敬すべき人だ。だが、一体誰と比べて尊敬しているのか、自分でもよく分からなかった。比較するような人物が浮かばない。ただ、田所さんは良い人だ。
 
 ある日教室で、いつもの通り机を挟んで話していた。とは言っても喋っているのはほとんどが手嶋だ。
「青八木は小さい時、何して遊んでた?」
「子供の頃……」
「また覚えてない?」
「ああ、あんまり」
 
 正直、歯がゆい思いばかりだった。覚えていないというのはこんなに困難なことなのかと、頭を抱えた。
 
「スマン、訊いた俺が悪かった」
「いや……、雑談なら当たり前の話だからいい」
 
 度々申し訳無さそうな顔をするので、それにも困った。
 
「手嶋は何をしてたんだ?」
「俺? 俺は、歌が好きだったから、よく休み時間に同級生に聴かせてた」
「そうか、歌が好きなのか。音楽なら聴く」
「へえー、誰聴くんだ?」
「誰っていうか、ヒップホップ……。詳しくはない」
「んー、ラップかあ。知ってたらカラオケで歌ったんだけど」
 
 言葉を大事に紡ぐそれは好みだった。
 というか、俺はそのジャンルの曲しか持っていない。うるさく鳴る音は、逆に精神を落ち着ける。集中を上げるのに役立つ。ペダルを踏むリズムにも合う。だから聴いていた。
 
「たまにゲームやってるよな、なんのゲーム?」
「オンラインゲーム」
「そう、か……、俺もよくわからんで訊いたわ」
 
 まずったという顔をしながら視線を逸らした。いつもこうなるんだから、いい加減学習をしても良い頃だと思うんだが、めげずに色々訊いてくる。
 ゲーム、これも持っていたからというだけで続けている。一応頻繁にログインしてはレベル上げをしている。いわゆるMMOの部類だが、パーティーを組んだことがない。誰とも協力せず、チクチクと低い経験値を得て育てていた。職は騎士。比較的レベルを上げやすいキャラのはずだが。たまにゲームの中に手嶋がいたらよかったと思うぐらいには、楽しんでいた。
 
「なんかさ、意外と共通点なくて逆に面白いわ」
「俺も、それは面白い」
 
 共通点は。唯一、自転車だった。
 あまりにも色々分からないので、手嶋の話を聞いているのが常だった。元々無口だからそれでも全然よかった。
 無口な理由は、“存在していなかったからだ”と、たまに頭をよぎった。
 
 
 
 初めて手嶋を家に連れて帰った日。俺は近所がこんなに色で溢れていると、その時まで知らなかった。それで、手嶋が色を添えていると思った。こいつが俺の世界に色を与えている。思えば入学初日、坂を登るのを見たと言った時点で気付くべきだった。学校に色があるんじゃなくて、手嶋が塗っていた。中学で美術の成績がよかったのを思い出した。俺は特殊な色が見える体質なんだろう。おそらく中学でも何かの色を見ていたんだろう。高校では手嶋がそれを担っているんだと。
 伴って自分の部屋に入ると、ベッドや本棚の輪郭がはっきりした。彩りを持って飛び込んでくるカーテンが、目に痛いほどだった。
 手嶋はすごい。



 そんな俺の違和感にも手嶋はすっかり慣れて、昔の話なんかはあまりしなくなった。今が大事だったから。夏のインハイを経験して、公貴の怪我に部が沈んだ空気になり、誰もがどこか気落ちしていた。
 サポートとして参加したインハイは強烈な色だった。何故なら手嶋がすっかり興奮していたからだ。
 鬱屈した部内で手嶋は、来年のことを話した。来年、一緒にあのインハイに出るんだと。俺も同意だった。
 それなら二人で力を合わせようと言ったら、嬉しそうな顔をして部室内が明るくなったので満足だった。

 グローブを片手だけ渡された。マジックで“勝”という字が手のひらに書かれている。
 勝利をくれるのか。
 手嶋はといえば、“必”。二つ合わせて必勝だが、手嶋は必然を持っていた。必然、俺にとって手嶋は必然だ。いなければ俺が存在しない。その頃には、そう確信していた。なにせ手嶋がそばにいないと色が無いのだから。
 
 服もそうだった。結構こだわりあるんだなと手嶋が感心していたが、そういうわけでもなかった。黒や白のモノトーンを基調に選ぶのは、色がくすんで見えないからだ。それには、何となく選んでる、と返していた。スタイルがカジュアルなのは、ヒップホップの影響だった。
 
 度々レースで勝利を得る。これは手嶋がくれる勝利だ。
 自分が一番になるには足がないと言い、俺を走らせて得る勝利。それで満足なのかと、いつも言いそうになっては口をつぐむ。きっといつか一番を獲る。その為に俺がいる。何故なら、お前がいないと俺は生まれていなかった。
 
 そうなんだ。誰かが手嶋に俺を与えたんだ。だから、手嶋が居ない時の俺のことがよく分からない。じゃあ、俺は、手嶋に一番を与える人間なんだ。
 それなのに何故凡人なのかって。二人で強くなることが必要だからだ。
 二人じゃないと、意味が無いんだ。
 
 合宿を迎え、選抜に入れず、今年もサポートだった。去年もやったから良いサポートができる。田所さんと一緒には走れなかったが、全力で支えたい。俺たちを育ててくれた尊敬する人を支えたい。
 
「来年はさ」
 
 手嶋は未来を見る。ただ去年とは少し違う。

「多分俺らが走ってんだよ、インハイを」

 誰が率いるかは分からないけど、きっと二人とも出る。そうなったら大変だと、先を見て今からの予定を立てた。去年は勝利を一つでも多く積み立てることが優先だったからがむしゃらに。今年は、細々とスケジュールを立てている。
 俺たちはオールラウンダー。戦法のためにポジション替えもあるかもしれないし、公貴だってあれから一年、もう体はほとんど癒えただろう。後は気力と思えば一緒に走るかもしれない。手嶋はどのポジションにも行けるように、練習コースを二度なぞる。俺もそれに付いて行く。後ろから見る、登っている手嶋が踏み込む度に揺れるのを眺めて、ジャージの鮮やかな緑色が稀に黄色の総北ジャージに変わるのを楽しんだ。

 一年の頃にした約束、手嶋にとっては単なる喩え話だったかもしれないが、俺は本当になるような気がしていた。
 だって俺にとっての主人公は手嶋で、手嶋のために俺がいて物語が綴られているんだ。
 だから、このインハイが終われば手嶋はクライマーになるんだろうと思っていた。



 劇的な総合優勝を飾ってインハイは終わり、しばらくの休養期間に入った。
 夏休み。互いの家に行っては宿題を突き合わせ、すぐに部活の話になる。今日は俺のうちで、手嶋がいるからあまりに色鮮やかで、自分の部屋なのに少し落ち着かない。
「なんか落ち着かねぇよなあ」
「え……」
「部活、どうなるか」
 色のことに気付いていたのかと思って、少し驚いた。
 まだ来年用の配置は知らされていないが、恐らく手嶋が主将になるだろう。他に適任がいない。公貴はメカニックに費やしメインの練習には加わっていなかった。対して手嶋の練習量や、指導の適性。無口な俺よりはよっぽど相応しい。それを話すと、照れてふざけてくるかと思ったら、ぐっと表情を引き締めて厳しくつり上がった目で俺を見た。
「もし、そうなったら……、支えてほしい」
 言われなくてもそうするつもりだったが、覚悟の中で俺を選んでくれたのは嬉しかった。でも、そうだった。俺は手嶋のために存在してるのだから、当然そうなるんだった。
 視線を受け止めて、一度強く頷いたものの己の存在を思ったら一体どう支えられるというのか、少し自信がなくなった。誰かが俺を与えたにしても、俺で役に立てるんだろうか。

 気落ちに気付いた手嶋が心配そうに覗きこんできた。
「どうした?」
「いや……、俺で大丈夫なんだろうか?」
「えっ、だめ?」
「そ、そうじゃないっ、不安! そうだ、不安……なんだ」
 手嶋は、先のことなんか分からないし、もしもの話だからって何とか雰囲気を和らげようとしてくれた。支えてほしいと言った手前、過剰だったかと慌てる手嶋に言い訳した。
「ち、違うんだ。あの……」
 俺が手嶋のための存在になれるかどうかっていう不安。それをどう説明すればいいのか。すぐには言葉が出なかった。
 頼ってくれるなら頼ってもらいたい。今これで、それに足らない人物だと思われたくない。でも不安の理由を説明するには、色のことを伝えるしか浮かばない。どうしよう、それでまた余計に変な奴だと思われても困る。困る、ってなれば、手嶋はもう気付いている、俺が困っていることに。
「あー、なんだかよく分かんねえけど、頼りすぎ…かな? すまん」
「あ、いや、本当に違うんだ……!」
「何かあんのか?」
 ほら、もう駄目だ。

「色なんだ」
「い、いろ?」
 もうぶちまければいい。疑われるより全然いい。
「手嶋がいると、色があるんだ」
 不可解な顔に対して必死で説明した。分かってもらえるかどうか、不明な段階で話すのは時々つっかえる。それでも手嶋はそういうことは気にせずに、理解しようとして聞いてくれていた。


 入学時、学校に来るまでの間に周りの色が鮮やかに、桜や他の花の色がとてもきれいだった。空の薄い水色もてっぺんまでいくと青が濃くなって、煌々と照る太陽が校舎を白に染め上げ、空の青をくっきりと区切り、散る花びらも光の粒が見えるようだった。手元を見ても己の肌色に赤が差して、ちっともどす黒くなく、足元の靴の色も砂も、走ってきた道路だって濃い灰色に青が少し混じっていて、影でさえこんなに色が溢れてるなんてすごいと興奮していた時に、手嶋が。


 もう説明できない。あんまりにきれいな色だったから。
「手嶋が色を持ってきたんだ」
「俺? ちょっと待て、それまでどういう風に?」
「大体がぼやけていて、なんというかグレーの紗がかかっている」
「視力の問題があったのか?」
「知らない、覚えてないこともあるし、親にも訊いたことないし注意をされたこともない」
「あー、そうだった記憶……、ああごめん」
「だから、俺は、記憶もないし自分で分からないこともあるし、それなのに手嶋に会って世界に色がついてそこからの記憶ははっきりと刻まれていて……だから」
 なぜか泣きそうになってきた。己の存在が不確かだって自分で納得してるのは平気だったのに、それを手嶋に言わねばならないっていうのが辛い。

 座って向き合ってたのに、隣でとても親密な距離で肩を抱いて撫でている手嶋がいる。
 はーっと一息落ち着けてから言った。
「俺は、手嶋のために生まれたみたいなんだ」
「馬鹿なこと言うな、お前は確かにここまで育ってきて、この家に住んでいて、な?」
 自転車を買った記憶だってあるから、中学の頃だってちゃんとお前はお前のためにいたんだと、知ってる限りのことで慰めてくれる。
 今なら、俺の中学の絵を見せても良いかもしれない。前に、思い立ってスマホで撮って学校で確認したことがある。
 腕を解いて立ち上がり、机と棚の間に挟んでいた大判のスケッチブックを出した。
「確かに俺は中学の頃もいた。その時の、俺は覚えてないけど俺の絵だ」
 開いて見せる。
 薄暗い風景画にところどころファンタジックに淡い色が浮いている。俺は、これがもう、離れている手嶋が運んだ色だと確信していた。
「これが、俺に見えてた世界で、手嶋といる時は鮮やかすぎて驚きっぱなしだ」
 そしてこの淡い色はおそらく手嶋だと伝えた。

 少し衝撃を受けて手嶋は固まったままだった。浅い呼吸を繰り返して、真実をまだ受け止めきれないでいる。
「すまん、怖がらせるつもりじゃなかった……」
「や、あの、そう…か……。本当にそうなら」
「俺は手嶋のために存在してるんだ」
「いや、ちげえよ! そう見えてるのは確かみたいだけど、俺のせいかもしれないけどさ? お、お前の、人生はお前のだよ?」
「でも、記憶が」
「だ、でも、まさかそれまで居たんだから。そうやって絵を描いてるし、それはさ、俺と関係なくお前のことじゃないか。お前が好きなこと、だろ?」
 そうだ、確かにこれは手嶋と関係ない、俺の得意分野。
「だろ? だからさ、これは責任逃れとかじゃねえからな? お前は好きでチャリ乗ってるし」
「それだって手嶋の」
「あぁーそうなるのか、まあ仮にそうだとしたって、絵はさ、とにかくお前のものだ」
「そう、だな……」
「な、ゲームや音楽も、だろ?」
「………」
 俺は勘違いをしてたんだろうか。

「目の異常がないのなら、なにか精神的なこと?かもしれないし? でも俺から見るとそんな風には見えない。わかんねーけどさ」
「ああ……」
 手嶋はしきりに頭を掻いては、あぐらの膝に手を戻す。考えるべきこと、焦り、申し訳無さなんかが見える。俺も申し訳ない。
「あの、さ……、不思議なことってあるかもしれないって思えてきてる」
 存在しないことを言われるのかと思って、心臓が止まりそうになった。手元からスケッチブックが落ちる。
「青八木は、俺のことを感知できるような、さ。そういうことじゃない?」
 絵に表された色が自分から発された物だとして、その色を描いた俺がいたんだと強調して。記憶のことはさすがに分からないと白状しつつも、確かに過去も青八木は存在したんだと言った。手嶋を受け取った俺が。
 そうかもしれない。曖昧な記憶は不明だけども、それのせいで昔の話なんかをお互いあまりしなくなったけど、絵が俺の存在を示してる。事実だ。
 さっきからずっと緊張していたから、涼しい部屋なのに汗が流れた。泣きそうになったりして動揺していたもんだから、事実、これにようやく気付けてほっとした。机のそばの椅子に座って、背もたれに片腕を置いた。

「大丈夫?」
「ああ、多分、手嶋が言うのが本当のことだ」
 それを聞いて手嶋も、後ろに手をついて反って、軽くほうっと息を吐いた。

「それ、ずっと悩んでたこと、だよな」
「ああ……」
「ごめん、全然気付けなくて」
 謝られたからびっくりして首を振った。俺が勝手に思い込んでいたことだ。
 傾いで立てた膝に手嶋が肘を乗せて、下から見上げてくる。
「改めて、光栄だよ」
 よく分からなくてそのまま見つめた。
「会う前から俺を特別にしてくれて」
「……いや、分からない、けど」
 ちょっとうつむいた手嶋が恥ずかしそうに言った。
「なんか、そのぅ、俺と一緒にいれば色があってきれいなんだって言うからさあ」
 本当にそうだから頷いた。
「じゃあ……、ずっと一緒にいればよくね?」
「な……」
 プロポーズみたいなことを言われて胸でひとつ鳴った。
「あっ、いやちげえ! そういう意味、いや、変な意味じゃなくて」
「あ、ああ……」
「な? 一緒にいれば楽しい、よな?」
 頷いた。また別の動揺が上がってきた。
「手嶋と一緒にいたら、世界が輝いているから、俺も一緒にいたい」
 必死で吐き出した、随分ポジティブに考えられるようになっての感激の言葉は逆に手嶋を硬直させた。
「う、あ…………、プロポーズ?」
 赤面して愛想笑いで少し引きつってる。
 俺も慌てて、赤くなってしまって違うんだと手を振っても、この瞬間から好きになってしまったことに気付いた。
 これはもう、誰かが仕向けたものじゃない。俺の感情だ。












 

20170109
少しメタ視線で組みました。